父を憎んでいた。
早く死ねばいいと思っていた。
「父 川根貞雄」
今から26年前 5月6日
68歳で人生を終える
それはそれは 周りからは
「おとうさん 大往生だったね」
と言われるほど
誰にも迷惑をかけずに
ひっそりと病院で息を引き取った。
真夜中の1時半・・・
気分良く
お風呂で読書を2時間ばかししていた頃
自宅の茶の間の電話が鳴る
「ジリリリ~~ン」
こんな時間に嫌な電話だなぁ~~~。
間違い電話ならまだ良いが・・・・
しかし なぜか不吉な予感が入った
嫌な電話だなぁ~~~と
その思いをつのらせると
「お父さんが・・・」
まさか・・・・
入院はしていたが、まさか亡くなるとは・・
何をしていいかわからず、お風呂で
そのまま、また本を読み続ける・・・
人間急な思いもよらず事態が起きたときは
一瞬何をしていいか、
わからなくなるとはこの事だ
おそらく10分は本を開いたまま
うつろっていたに違いないはず。
簡単に喪服を持って
真夜中に札幌から室蘭へ車を急がす。
今から26年前のことだ。
なぜか 悲しくなかったのを覚えてる。
やっと死んでくれたか・・・
という気持ちで一杯だった。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○
いつも家族で話していたこと。
「お父さん早く死ねばいいね」
「事故では相手に迷惑をかけるから
急死で死んでくれればいい」
そんな父の死を望んでいた家族だった・・・
今考えれば、ひどいと思う。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○
思えば僕が 恐怖で
言葉がでなくなったことも
姉が大人になるまで「おねしょ」を
してたことも
すべて 父の酒乱のせいだ。
飲んだら暴れる、喧嘩する、暴力をふるう。
その恐怖にいつも怯えて育った。
山口県で過ごしていたが
あまりのお酒で、近所や親戚に
迷惑をかけるからと
母が兄を頼って北海道・登別に来たのは
僕が小学の6年生の時だった・・・・・
見知らぬ土地で父はお酒もやめ
ちゃんと仕事をしてくれるだろう
という母の願いも空しく
父は誰も叱ってくれない登別で
ますますお酒を飲むようになる
母が言うには
「お父さんは
結婚生活の3分の一は入院してるね」
体が黄色くなり、顔が腫れて
何度も死に掛けては生き返していた。
いわゆる、お酒の飲みすぎによる肝硬変だ!
病院の先生から
「生きてるなんて信じられない
もし死んだら
解剖させていただけませんか?」
死ななかったのが不思議だったようである
退院して
お酒を飲まないのはほんの1週間
また朝からお酒を飲み続け仕事にもいかない
母を殴る蹴る 包丁を振り回す。
子供だった僕達は、必死で止める。
真夜中に何度、母から手を握られ
外へ飛び出していったかわからない…
そのたびに「じゅんぼ どこに行こう・・」
髪を振り乱し青アザをつくり
母と一緒に泣きながら
あてもなく歩き続けるのを
一緒に黙ってついていった・・・
幼い頃・・・
10年前に5日間断食をした。
九州の阿蘇山にある僕の師匠の元だ
「北川八郎先生」
半農半陶生活を送る仙人みたいな人だ
北川先生は、陶芸が本職だからと
著書や講演会のギャラは
すべて寄付をしている。
断食の3日目くらいだったろうか
先生は言う
「じゅんちゃん
今日はお父さんの事を考えるとええよ」
朝に散歩をして 露天風呂に入り
写経をして(ほとんどしなかったが・・)
一日中父のことを考えていた・・・
考えても
お酒を飲んで暴れることしか出てこない
「考えてどうなるんだろう
思い出したくもないのに」
しかし師匠の言われたことは絶対だ
僕はずっと父のことを考えていた……
幼少の頃、
酔った父の乗る自転車の
後ろにしがみついて・・
ここまでしか覚えてないはずが・・・
気づくと病院で頭を包帯でぐるぐる巻いて
入院してる僕がいた・・・
それは昔の写真
小学に上がる前があったので思い出した
その写真でも父は酔って目がうつろだ。
小学の頃に 自分がうまく話せないことに
気づく
いわゆる「どもる」症状だ。
酔って見境のない大きな父の声
母を大声で殴る父
恐怖でおののく姉と僕・・・・
あぁ~~~こうやって書いていても
また心臓がドキドキする
中学、高校・・・父が嫌いだった
と同時に母が可哀想だった。
なんで母さんは文句も言わず
ただ黙って殴られてるんだろう!
もっと強くなればいいのに。
僕が強い女性を好きになるのには
そういった弱いかわいそうな女性は
母の面影を見るような気がするからだ
「弱い オンナの人は かわいそう」
美容学校・・・・
そして自分で独立してから・・・
書くときりがない
最悪なのは 営業中にお店にやってきて
「じゅん お金あるか・・・」
とお客さんがたくさんいるのに
酔った顔をしてお店に出入りする父がいた
それでも母を心配させたくないから
僕はそのことを母に言ったことがない
そういえば 幼稚園のとき
お年玉や親戚からもらった小銭を
ブタちゃんの貯金箱に 小銭を入れて
貯金箱が重くなるのを 楽しみにしていた頃
学校から帰ってきたら貯金箱がない‼️
探すと台所に転がっていた
母に聞いたら知らないという
子供の楽しみにしていた貯金箱の小銭まで
お酒代へと消えていく・・・・
でもそんなことも 誰にもいえないし
父が酒を飲んでいるということも
母には言えない
だから父のことを思い出しても
悪いことしかないんだ
でも北川先生は
一日中お父さんのことを考えなさいと言う
朝からずーと考え 夕暮れに差し掛かる頃
なんだか悲しくなって 泣けてきた・・・・
父が死んで思い出しても
何一つ可愛がってもらったことがない
「だいっきらいだ」
その気持ちが夕暮れと共に
やがて・・・・
温かい気持ちに変わる時がきた
あれっ・・・・
小学6年のとき 野球部で試合があるからと
スパイクを用意しておくようにと
野球部の先生から言われたことを思い出す
僕はお金に困る母に スパイクを買ってとか
そんなことは言えなかった。
いくらなのか見当もつかない
高いんじゃないか?
だからずっと黙っていた。
スパイクがなければ試合に出れないのか?
運動靴でもいいんじゃないか?
母には言えない が、試合は迫る
仲間は試合が近づくにつれ
スパイクを履く選手が多くなっていく
僕は・・・・・・・・
とうとう試合の二日前、こっそり母に言う
すると
母は僕が一番いって欲しくない言葉を言う
「お父さんに聞いてみるね」
なんで なんでお父さんに聞くんだ!
お母さんだけの胸に留めて
こっそりスパイク買ってよ!
父に言ったらだめだ・・買ってもらえない
僕のお小遣いまで 黙って奪っていく父だ
あきらめていた
スパイクのないまま試合に出る覚悟でいた
その頃の僕にとって
みんなスパイクはいてるのに
僕だけ運動靴は恥ずかしかった。
あきらめていた
夜ご飯を食べようと思っていたとき
父が 「じゅん、ちょっと行くぞ」
どこへ行くかわからなかった・・・・
登別から汽車に乗り
隣町の幌別に着いた先はスポーツ店
「お前の足何センチだ」
「ぼ、ぼ、ぼく24センチかな・・・・」
忘れていたはずの父からのプレゼント
こんなことがあったなんて思いもしなかった
汽車に揺られ 一言も会話もないまま
「どこへいくんだろう」と
不安がってた小さな頃の僕がいた・・・
深く思い出すと、すごいものだよ。
こんなとこまで思い出した。
スパイクの紐を結んだときの 「asics」と
言う文字・・・
なぜ・・・
なぜ、そんなことまで思い出すんだろう
一日中父のことを考えて
アレだけ嫌いだったのに
優しくされたことなんて
一度もなかったはずなのに
それからと言うもの
あれよあれよと出てくる
そういえばキャッチボールもしたよ
高校の頃マージャンもしたよ 。
父は友達に国士無双を振ったよ
たくさんたくさん可愛がられたよ・・・
すみません もう書けなくなった
これを内観と言う
亡き父に お水を上げようっと・・
最後に言おう 「お父さん ありがとね」
全てに 感謝します。🙏
追伸
人生でもっとも大切なこと!
それは
「人生の師匠を持つことです!」
過去日記より・・・・川根順史
札幌じゅん先生
川根順史 Vidal Sassoon 24th Champion SKNOW / 札幌市中央区南2西4 Pivot 5F 川根塾/南1西8 札幌ビューティアート専門学校 🎙FMしろいしラジオパーソナリティ🎙 〜じゅん先生のPMAでいこう〜 生放送 毎週水曜 21時〜22時 再放送 毎週日曜 21時〜22時 〜Smileレディがんばる女性たち〜 毎週金曜 17:30〜17:50
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